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なぜ僕は映画『君の名は。』を面白く思えなくなってしまったのか【ネタバレ注意!!】

スプラトゥーンTwitter界隈において、また社会的に『君の名は。(以下、本作品)』が大絶賛されているということで、ってかそもそも興味があったので、昨晩鑑賞してきました。

(下の方でかなり作品の内容に言及しているのでまだ観ていない方は読まないほうが良いと思います。)

 

Twitterで見る限り、本作品は手放しに高評価されており、リピーターも多くいる様子。そこに興行収入100億円突破という、これまであの宮﨑駿しかなし得なかった偉業を成し遂げたというニュースが飛び込んで来たので、それはそれは、とても期待して行ってまいりました。

 

結果としてはまあTwitterにも書いたのですが、本作品を観た感想は最初はかなり手放しに褒めたい感じだったんですよ。でも色々考えていくうちにのような感じになりました。

「いや~面白かった!もう一回観てもいい!⇢いや待って?あれってなんでああなったんだ?そもそもどうしてそうなった?ってか新海誠どこ行った?⇢うん?なんだったんだ

 

ということで、僕はリピーターにはなれそうにありません。残念です。

 

では、僕がなぜ本作品を面白いと思えなくなっていったのか。

(ここから後はネタバレを多分に含みますし、「セカイ系」とか「ギャルゲー的」とか、僕が思う他監督作品が表現したいことや、「新海誠作品とはこういうものじゃないか」という独自の解釈を吐露していく内容です。)

 

簡単にまとめると、下記の通りです。

・よくあるギャルゲー的展開は、僕が想像していたものと違った

・そもそも求めていた新海誠は本作品にはいない気がした

・風景描写やディティールの矛盾っぽい点が気になりすぎた

 

というところです。本作品の内容にも言及しながら説明していこうと思います。

 

  •  よくあるギャルゲー的展開は、僕が想像していたものと違った
    まず、本作品について感じた違和感は、その美しい風景描写や作り込まれた作画を観ながら「リアルすぎるギャルゲーじゃん」って思ったところから始まります。
    ギャルゲーっていうものが何かという話ですが、僕の言うギャルゲー的というのは「とりあえずこの作品の世界観についてこなければ楽しめないから絶対ついてこい。そして最後に感動してくれ」というものです。
    CLANNAD』とかKey作品(というか麻枝准作品)が結構僕は好きなんですけど、そういうゲームと同じで、とにかくなんでこうなったかとか考えさせる間もなく、あれよあれよと人生の選択を迫られ、そして大団円に向かっていくものなんですよね。
    まず瀧と三葉が入れ替わることについて、「宮水の女は全員そういう経験をする、そしてこの経験は今日という一大事件の日のためにあった」っていうまあ霊的というか神秘的なものだということで多くを触れずに終わっちゃってるんですよね。
    なんか前回の隕石のせいで焼けて無くなっちゃったからどうして宮水神社がこうなっているのか、そして宮水の女は男性と入れ替わる経験をするのか、はては祭の意味がなんだったのかも失われたんでしたっけ?
    まあそこはいいでしょう。そういうことはあるもんでしょう。
    新垣結衣舘ひろしが主演だったドラマ『パパとムスメの7日間』とかでもありましたし、マガジン連載の『山田くんと7人の魔女』とかもあるし、ぶっちゃけまあ入れ替わり系って個人的に新鮮味がないんですよね。
    さらに『エヴァンゲリオン』を代表とする「セカイ系」というものがあります。セカイ系っていうのは、wikiの言葉を借りると「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」なんですね。そういうジャンルについては新海誠というのは結構得意というか、ポスト・エヴァと言われる『ほしのこえ』という作品を出していますし、まあ代表格に位置するひとなんですよね。
    今回も例に漏れず「セカイ系」なんですけど、結局こういうのって語り尽くされてる感があるというか、まあよくある深夜アニメというか、「それもう別の話で見たわ」という既視感にさいなまれちゃったわけですね。まあ本来の新海誠っぽさはあったんですけど、僕はうまく消化できなかった。

  • そもそも僕が求めていた新海誠は本作品にはいない気がした
    おそらく、僕が本作品に期待していたのは、『秒速5センチメートル』とか『言の葉の庭』とか、本当に現実世界には奇跡も魔法も摩訶不思議アドベンチャーもなくて、どんなに好きでも、想っていても、ただただすれ違っていくし、人との距離感を詰めるのは難しいし、結局何も人生は変わらずに続いていく、たまにいいことがあったなって続いていく、そういう作品だったんだと思います。
    本作品は新海誠の作品の中では、始めて製作委員会方式が取られていて、東映がかなり噛んでいます。そういう意味で、新海誠の毒々しく、重々しいまでの気持ち悪さとそのリアルさってのが前面に出てるわけじゃないんですよね。そういう点も、多分僕の期待の仕方がおかしかったんだろうなと。
    まあ、そういう意味で行くとバイト先のマドンナ、奥寺先輩と瀧くんのデートはまさにすれ違いなんで「いや奥寺先輩、あなた三葉に恋してるんですよ」って想っちゃって悲しくなりましたけど。

  • 風景描写やディティールの矛盾っぽい点が気になりすぎた
    新海誠の作品って、本当に背景が綺麗だし、一つ一つの作画を取り上げてもきっと綺麗なんですよね。それが本作品でも存分に発揮されていて、本当にそこは素晴らしかった。(僕は隕石に『ハウルの動く城』のカルシファーハウルのところに来るシーンを重ねてたんですけど)
    ふとした背景、ちょっとした女子の部屋・男子の部屋の描写はもちろん、三葉が始めて実際に目にする東京の「なんかすごそう!」感とか、糸守の美しさとか、そういうものはやっぱり最高に綺麗でした。
    ただ、いや~良かったな~って終わった後本作品を頭の中で想起していくと、そういう風景描写の中や、ちょっとした演出の中で、なんでそうなったん?というシーンがあまりにも多かったんですよね。

    なんで弁当の持ち寄りであんなに豪華なサンドイッチできるんや。今時あんな難癖つける典型的な客おらんやろ。あんなオシャレなカフェに高校生3人が行く設定はちょっと自分の記憶からは想像できない。ってかなんであんなに金あるんだ瀧くんは。パフェ食べすぎだろ。バイトの先輩と急接近するにしても急接近しすぎだろ。どうして親父は家を出ていったのに宮水っていう名前を捨てないんだ。宮水っていう地域に馴染みのある名前を狡く利用している様を表現しているのか?お母さんの二葉の描写少なすぎない?いつのまに瀧くんと三葉は好き合ったんだ?どうして奥寺先輩と司を糸守探索まで持ってきたんだ?結局三葉の「この日の(隕石を回避する)ために宮水の女が経験する身体入れ替わりがあったんだ!」っていう設定で四葉は何事もないのか?ってか瀧くんはなんで名前書かなかったんだよ書いたらもっとすぐ終わったんじゃないのか?

    とまあこんな具合で色々出てきてて、もしこれが新海誠の素晴らしい背景作画とかじゃなければ気になってなかったかもしれないんですが、なまじリアルに似せすぎているせいで、リアルじゃないところに目が行ってしまうというか、それって普通有り得なくない?こんなリアルな世界なのに?って感じになっちゃったんですね。

 

大体こんな感じです。

つまり、勝手に期待して勝手に幻滅していったわけですね。

 

あと、コンテンツ消費される世界なんだなっていうのをTwitterで言った件について。

僕は結構アニメとか観るのが好きで、ディズニーアニメも、ジブリも、押井守作品も、神山健治作品も、細田守作品も、新海誠作品も、ガンダムシリーズマクロスシリーズもそれなりに観てきたんですよね。そういう意味では「アニメってこうやって変わってきたし、各監督ってこういう作品の良さがあるよね。この作品ってこういうもんだよね」って勝手に決めつけている節があるんですよね。そして僕は宮台真司とか東浩紀とか宇野常寛とかいわゆるゼロ年代の言論というのが大好きで、それの真似事をするのが好きなんですよね。

「コンテンツ消費されるサブカルチャー」とか、なんかそれっぽい響き、中二臭くてかっこいいじゃないですか。そういうのずっと憧れているというか、なんか批評というものに漠然とした憧れがあって、こういう気持ち悪いことになっているんだな~と、書きながら思いました。

さらに、僕が本作品に何を求めたかというと、セカイ系というジャンルでもなんでも良いけど、(僕の思う)新海誠らしさってのはこうだ!これが観たい!ってのが勝手に先行してたりして、上に書いたようなことになってしまったわけですね。

完全に懐古厨ですね。

 

逆に、書きながら何にこだわってたんだろうって思ったので、ぜひここまで読んでくれた方は「リョーヘイとかいう懐古厨キモいwwww」って思って、遠巻きに眺めていただければ大変うれしいです。

 

ありがとうございました。